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霧島戦記

 
       

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旅客飛行艇

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旅客飛行艇BAS-370/KT-66A1”
BAS-370 / KT-66A1

島国霧島共和国にとって空港は重要な要素のひとつだった。
情報化が高度に進行した現代では従来の船舶輸送ではカバーできないスピードが求められたのだ。
また霧島共和国が経済的に発展する上で空港建設の要望が至るところで叫ばれた。

就任したばかりのシルフ・ランバート霧島最高長官はこの要望に対し、国内航空ネットワークの充実を確約し、現地の調査とプロジェクトの進行を空技研究所、環境研究所、交通庁、産業庁、防衛庁から選抜された同士に託す。
彼らの中には26歳という若手航空機技術研究者”クラーク・タミヤ”も含まれた。

もとより比較的大きな土地を持つ4島は空港建設に問題はなかったが、点在する小規模な島には大きな空港が建設できず、そのことが争点のひとつとなる。
シルフ長官は常にどの島でも同じ水準の生活を、求めに全力で応じることをモットーにしていたからだ。

解決案にはテレジアで主力輸送手段となりつつある大型飛行船による小規模空港も検討されるが飛行船には悪天候に弱いという弱点があった。霧島共和国は海流のぶつかる個所に位置しており気候も決して穏やかとはいえなかったのである。

しばらくして頭を抱えた推進部は技術者全員を集め総会を行った。
ここでクラークは人生を成功させることとなる。
彼は自分の小さな部署で研究中の大型飛行艇プロジェクトを提案、現実的に実用と運用が可能であることを証明したのだ。
推進部には空技研の首脳も参加していたが、クラークの研究部署は費用から凍結していたのである。
彼はひっそりと有志を募り、時間を見つけては研究を進めていたのであった。
この提案により大規模な地上施設と莫大な予算を必要としない”洋上空港”案が可決され、クラークは研究部長に任命される。

クラークは水を得た魚のように実験機を次々と制作しデータ収集をハイペースで行う。
その熱意は部下に”休暇つぶしの鬼”とまで呼ばれるほどであった。
こうして彼らは3年後に初めての試作機”X−28”(つまりここまでの実験機案は28機にも達したわけだ)を総会で発表、展示飛行を行う。
飛行艇特有の洋上での揺れは理着水時以外は可変ギアモーター(タイヤのホイールをスクリューとして代用したもの)での制御で軽減、推進部を驚かせた。
しかし本当に凄かったのはその後の改良である。
”XKT-28”の評価は非常に高かったので予算が大幅に広げられ、クラークはより自由に研究をすることになった。
研究員の士気も比べ物にないほど高くなり、さまざまな驚くべき実験がされた。たとえばジェットエンジンを海水に突っ込んで動かすといったことや機体の4隅に本物の漁船を4隻取り付けるといったことも。
周りから見れば馬鹿野郎!と殴られそうになることもクラークは大いに推奨して研究させたのである。
そして新しくクラークについたあだ名は”会計泣かせ”。

第20回に達した総会でついに”XKT−66”が披露される。
彼ら技術者の努力によりついに究極とも呼べる機体が完成したのだ。
通常空港への着陸も可能で離着水可能な波の高さ最大7メートル、最大搭乗可能人数468名、それに伴う最大搭載貨物は約5000Kgを誇る。
総会はこの機体を”BAS−360”となずけ、運用する空港案を早急にまとめ、工事を開始した。
機体自体はベテラン造船会社”オリオン造船”と”S&J発動機”をはじめとして多くの企業を空技研がまとめ、製造工程を調整、2647年に量産を開始した。
その後、運用上の理由から小改造を行いBAS−370となる。
BAS−370は霧島の航空会社”クロスライン・エアー”、”サンライズ・エアー”、テレジア航空会社”テレジア航空”をはじめ、至る所で姿を見せている。
また、クラーク研究員の業績を称え、クラーク・タミヤ航空研究所と記念館がローランド島、ゲートキーパー飛行艇空港に併設された。